2011年1月23日日曜日

訳詞長短話


やくしちょうたんわ
Nagasaki interpreters textbook for Chinese and other languages conversations
魏五左衛門著
寛政8年(1796)
<長崎歴史文化博物館 12 3-2(国指定重要文化財・長崎奉行所関係資料)>

長崎の東京通事・魏五左衛門喜輝(1757-1834、号・龍山)が官命により編纂した通弁書で、唐通事養成のための会話テキストとして用いられたものである。トンキンは現在のベトナム北部を指すが、近世長崎における東京通事は、モウル通事や暹羅通事らとともに、唐通事集団の一部を構成していた。

近世長崎が生んだ書物のなかでも、これほど不思議な本はなかなかない。中央に記した漢文の両側には、南京官話・東京語・モウル語・安南語・オランダ語、ポルトガル語などの発音や訳文が「魏氏仮名文字」と呼ばれる独特の仮名文字で付されている。本書に見られる東京語は、福州語を基本としつつ若干のベトナム語が混入した言語と指摘されている。またモウル語はムガル帝国の公用語であったベルシア語とのこと。ピジンなのか、クレオールなのか、ともかく恐るべき書物である。

長崎唐通事は、17世紀に大陸沿岸から貿易のためにやってきて、やがて長崎に住み着いた人々(住宅唐人と呼ばれる)の末裔で、近世日本きっての多言語集団であった。著者の魏五左衛門は、東京人・魏熹(1659-1712、日本名五平次、諱は喜宦)の子孫で、熹から数えて4代目。その熹は、崇福寺の大檀越でもあった魏之エン(1617-1689)の僕として来崎したらしい。巨商・魏之エンと崇福寺についてはいずれ詳しく書きたい。

東京通事の魏氏は、モウル通事らとともに、幕末にオランダ通詞に命ぜられたようであるが、どういう経緯だったのだろうか。墓地については手がかりがない。


<追記>
墓地については『長崎学ハンドブックIV』に載っていると、その後お知らせ頂く。見落としていました。有難うございました。


<参考URL>

・大橋百合子「唐通事の語学書:「訳詞長短話」管見」『語文研究』第55号、39-52頁。

・同「方言資料として見た長崎通事の語学書 : 魏龍山「訳詞長短話」及び岡島冠山の諸著作など」『語文研究』第59号、15-27頁。

・長島弘「『訳詞長短話』のモウル語について-近世日本におけるインド認識の一側面-」『長崎県立大学経済学部論集』第19巻、1986年.

・中嶋幹起「長崎異国通事資料『東京異詞相集解』」、長崎楽会2002年11月例会。

・長崎県指定史跡「鉅鹿家魏之エン兄弟の墓」

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